2011年6月22日水曜日

問題29 社会の構想 の問題をうけて私のコメント。

くそ勉強ブログより



 「不思議の余地を残す社会」が私の構想する社会です。
何の不思議を残すのかというと「言葉が通じること」「同じだと分かること」「ルールを共 有できること」などです。これらは社会を形成する上で欠かせない要素だと言えるでしょう。考えの異なる個人同士が同じ共同体をつくれる、そのことの不思議 を忘れないことが、今の社会に付加したいことです。

反対に不思議ではないことは「言葉が通じないこと」「同じだと分からないこと」「ルー ルを共有できないこと」です。できなくて当たり前でしょう。できてミラクルではないでしょうか? 言葉が通じるということは、つまり出してはいけない音や 書いてはいけない文字などがあるのです。いくつかの禁止事項を設けることで、通じ合う言葉が誕生します。その人だけの言葉ではその人だけです。社会形成に は共有をしないとならないはずです。しかし有象無象の世の中で「あなたのバナナ」と「わたしのバナナ」は同じバナナであると共有できることは驚きです。違 う木に実っていたバナナでも、フィリピン産でも台湾産でも同じバナナ。さらにこの手に持っている物質をなぜ「バナナ」と呼ぶのかと考えたら、もう共有はむ りなはず。そのように考えると「同じだと分からないこと」は当たり前なのかもしれません。象徴を抜かして見たら違うのですから。赤ちゃんや幼児のころは分 からなかったはずです。いつしか発達過程を経て、絵のバナナもスーパーのバナナも台湾産バナナも食べているバナナも同じ「バナナ」だと分かるようになりま す。差には眼をつぶれるようになります。

さて話はちょっと代わります。私が「苦手だなぁ」と思う人について書きます。
どんな人が 苦手かと言うと「つっこめない人」です。なんでやねんです。つっめない人とは…なんというのかな…決まっている人、と形容しようかな。決まっているとは、 自分とはこういう人であると完全に自認しているかのようなこと。つまり、自分の基盤を揺るがす他のルールや他の人には眼をつぶってしまう人。バナナはバナ ナとだけ言う人。
そんな人と会話していると、いかに自分が凄いかを教えてくれることがある。
主な項目は家柄、学歴、収入、実績など。どうだ!凄いでしょう!と言われるともう閉口してしまう。
きっとこの人にはつっこんでも無理なんだろうなと私はへこむ。
私のつっこみたい項目は
・常識というのは底が抜けておりますなぁ、
・それは括弧付けの価値ですよね、
・人は誰しも狂うことはありますよね、
・バナナになる前はバナナは何だったのでしょう
…などです。

本当は「うるさい、面白くない!」と場を壊せたら私の健康には一番いいのでしょう。しかし勇気がなくて言えない。そんなときにふと思うのが「不思議の余地を残してほしい」なんです。
偉 いステージにいるあなたかも知れないが偉くはないかもしれない。そもそもが有象無象の中から意味を取りだしているのだから、取り出した先のルール以外に も、いろんな前提の世界は拡がっているでしょう。その不思議の上に成り立っているのですから。と思うのです。意味やルールだけ占めるのではなく余白を残し ていて欲しいな。

いや…自分でも変なことを書いているなと思います。しかし言いたいのは「国民皆平等」とかではありません。ステージの高 い人の暮らしぶりは私の暮らしぶりと違うでしょう。それにいかに自分は凄いのかと私に知らしめるくらいの差はあったりするでしょう。長らく身分制度はあり ましたし、全員平等というルールの方が無理あるでしょうとか思っていますよ。
その、なんというか、自分だけのルールで完結しないで欲しいなぁという訴えであるんですけどね。相手にはまったく異なる世界が拡がっているかも知れないのに、それなのに、共有出来る凄さってのがありますよね、と言いたい。
そしてそういうのが壊れる場合もありますよね…と。

社会も都市型になると、共有出来ない人は排除と管理をしてきた歴史があります。狂人や働かない人は都市社会に意味をなさないので閉じ込めたり。都市の治安を守るために座敷牢にいれたり。最近では病院や施設へ預けて地域へ戻さないなど。
解 剖学者の養老孟司さんは脳化社会と言っていた。すべてコントロールしようとする。人の頭の中で完結させようとする。なのでコントロールできない土はアス ファルトにしたりする。それで養老さんは1年の内何ヶ月は農村へ行って畑仕事をせよと提案していた。参勤交代。手に負えない自然を体験せよということだ。
私 はこれを社会のルールだけが全てじゃないという意味を受け取った。コントロール出来ないこともある。コントロールできると誇大広告をうっていた原子力発電 所は、コントロールできなくなったときの対処をぜんぜん考えていなかった。林くんの生きている人だけではなく、死んだ人を大切にしてほしいには共感する。

死 を見ないようにするのも、共有できない人を見ないようにするのも、自分だけのルールしか見ないのも問題がある。みんな平等に致死率100%を持っているわ けだ。発達障害や重度の精神疾患、認知症など脳機能がどうなるかなんてわからない、それは肺がんになったり、盲腸になったり、風邪をひいてしまうのと同じ 意味でいつまでも今の機能を保っていられるかどうか分からない。地震はこれからも起こるだろうし、津波はこれからも起こるだろうし、火山保有も世界一の国 なのだ。社会が成り立つ不思議を忘れるといびつだ。なぜなら共有の社会が全てではないのだから。不思議の余地を残すためにどうすればいいか、がこれからの 課題です。

恐山

境内にある温泉
天気のせいもあるのか。想像していた恐山よりもとても清々しかった。


青森 浅虫





2011年6月21日火曜日

ひょうたん島


一枚の絵の力」にて

青森へ

青森にあるホテルに壁画を描いてきた。場所は新町通にある青森プラザホテル
ただいま改装中で、今度名前が変わるらしい。
向こうは涼しくて湿気がなくて快適この上なかった。

写真を載せます。
りんごで岩木山を描いた。右の家がわんさかとある絵を描いたのは潘くん。床や天井に展開している植物の文様は乗田さん。

最終的には4〜5人が描き込むことになる。それぞれがパターン展開していくのでバラバラにならず壁紙のようにホテル内を装飾していくのが狙い。



りんご

長野へ

長野県大町市へ行ってきた。原始感覚美術祭があるのだ。
木崎湖畔を中心に7月30日から8月29日まで開催される。
こうご期待。